察してもらう時代の終わり
暗黙知の国は、AIとどう向き合うか
生成AIを試した日本人は四人に一人。なのに毎日使う人は二十五人に一人。準備万端の国が、なぜ根づかせられないのか——「察し合う文化」と「恥の文化」を手がかりに、日本人とAIの噛み合わなさの正体と、その先にある沃野を考えます。
少し、不思議なデータの話から始めさせてください。
国が発行する統計情報によると、日本で生成AIを「使ったことがある」人の割合は、最新の調査で26.7%でした。およそ四人に一人。その一年前が9.1%でしたから、わずか一年で三倍近くに伸びた計算です。間もなくさらに新しいデータが公開される予定で、この数字はもう一段伸びていると思われます。少なくとも、日本人もずいぶんAIに手を伸ばし始めた——数字の上では、そう言えそうです。
ところが、もう一つの数字を並べると、景色が一変します。
生成AIを「毎日使っている」人の割合は——わずか4%。これは、ある国際調査がアジア太平洋地域を対象に測ったものですが、同じ調査で、インドは32%、東南アジアの平均でも19%でした。日本の4%は、その水準に遠く及びません。試した人は四人に一人いるのに、毎日使い続ける人は、二十五人に一人しかいない。
私は、この「試すのに、根づかない」という落差に、ずっと引っかかっています。
新しい道具を前にして、一度は手に取ってみる。けれど、いつのまにか使わなくなり、元の手順へ戻っていく。これは、能力の問題なのでしょうか。それとも、環境の問題なのでしょうか。——どうやら、そのどちらでもないらしい、というのが、このコラムでお話ししたいことです。
先に、私の見立てを申し上げておきます。日本人とAIは、どうも相性が悪い。それも、能力や環境の問題としてではなく、私たち自身の「文化のかたち」に根ざした、もっと深いところで噛み合っていない。——そう考えています。なぜそう言えるのか、そしてその先に何があるのか。順を追って、お話ししていきます。
準備は、世界最高水準で整っている
「生成AIが日本に根づいていない」——この事実を前にすると、私たちはたいてい、こう考えます。きっと、土台が足りないのだろう、と。通信環境が貧弱なのかもしれない。使いこなせる人材がいないのかもしれない。あるいは、国としての備えが遅れているのかもしれない——。
ところが、日本に関するかぎり、この見立てはことごとく外れます。
国際通貨基金(IMF)が公表している「AI準備度指数(AI Preparedness Index、略してAIPI)」という指標があります。通信インフラ、人材や教育の水準、技術を経済に取り込む力、法やルールの整備——そうした要素を束ねて、その国が「AIを受け入れる準備をどれだけ整えているか」を数値化したものです。
この指標で、日本のスコアは0.73。先進国の平均である0.68を、はっきりと上回っています。上位に並ぶのは、シンガポールや北欧諸国といった、デジタル化で名を馳せた国々。そのすぐ後ろに、日本はつけています。世界でも有数の「準備が整った国」——それが、データの描く日本の姿なのです。
考えてみれば、当然かもしれません。日本の通信網は世界でも有数の速さと安定を誇り、国民の教育水準は高く、政府もAIの指針づくりに早くから取り組んできました。AIを迎え入れる「器」は、とうに整っているのです。
ここで、謎はいっそう深まります。
器は、世界最高水準で整っている。なのに、日常には根づかない。だとすれば、足りないものは——通信でも、人材でも、制度でもない。もっと別の、目に見えにくいところにある。私には、そう思えてなりません。
そしておそらく、この感覚は、現場で実際にAIの導入を進めてきた方ほど、強くうなずけるのではないでしょうか。ツールは入れた。研修も受けた。環境はすべて用意した。なのに、なぜか現場で使われ続けない——その既視感の正体を、ここから一緒にたどってみたいと思います。
第一の逆風──察し合う文化は、AIの前で弱点に変わる
まず、AIという道具の性質を、ひとつ確認させてください。生成AIは、こちらが渡した情報の量と質に応じて、賢くもなれば、的外れにもなります。前提を丁寧に伝え、背景を細かく説明し、何を求めているのかを具体的に言葉にするほど、返ってくる答えは精度を増す。逆に、こちらが多くを語らなければ、AIもまた、当たり障りのない一般論しか返せません。AIは、文脈を与えられて初めて力を発揮する道具なのです。
ここに、日本人にとっての、最初のつまずきがあります。
私たちは長らく、多くを語らないことを、美徳としてきました。「一を聞いて十を知る」。「行間を読む」。「言わぬが花」。相手の察しを期待し、言葉を尽くさないことを、奥ゆかしさとして尊んできた文化です。会議で全部を言葉にする人より、空気を読んで黙る人のほうが、ときに高く評価される。そんな国に、私たちは生きています。
ところが、AIは、察してくれません。
私たちが「これくらい言わなくても伝わるだろう」と省略したその瞬間に、AIの精度はすとんと落ちます。察し合う文化のなかで磨かれた、あの「言葉にしない技術」が、AIの前ではそっくりそのまま、弱点に変わってしまうのです。
このことを、もう少し身近な風景に置き換えてみます。
日本には、美しい職人の世界があります。「技は見て盗め」「背中で覚えろ」。師は多くを語らず、弟子はその手元と佇まいから、言葉にならない呼吸を学び取っていく。この継承のかたちで、間違いなく、日本のものづくりの強さは支えられてきました。私はこの文化に、深い敬意を抱いています。
けれど——AIは、師の背中を見ることができません。
職人が後進に技を伝えるとき、「見て覚えろ」で済ませてきた人は、おそらくAIに対しても、同じことをしてしまいます。多くを語らず、肝心なところを省き、「あとは察してくれ」とばかりに短い言葉を投げる。そして、思うような答えが返ってこないと、「やはりAIは使えない」と、道具のせいにして離れていく。
一方で、自分の頭のなかにある段取りを、面倒がらずに言葉へ開いていける人がいます。何を、どういう順で、なぜそうするのか。これまで背中で見せてきたものを、一つひとつ言語に変えて、AIに手渡していく。そういう人のところでだけ、AIは驚くほど有能なパートナーになります。
つまり、日本人とAIが噛み合わない第一の理由は、能力の差ではありません。「言葉にして、渡す」という、ただその一点の構えの有無なのです。
第二の逆風──恥をおそれる心が、最初の一歩を押しとどめる
噛み合わない理由は、もうひとつあります。こちらは、「伝え方」ではなく「踏み出し方」に関わる問題です。
先ほどの国際調査には、興味深い続きがあります。生成AIに対して、どんな感情を抱いているか——それを国ごとに尋ねた結果です。インドや中国といった国々では、半数を超える人が「期待」や「興奮」を感じていると答えました。新しい道具を前に、まず胸が高鳴る。そういう反応です。
ところが、日本では、様相が違いました。最も多かったのは、「期待」ではなく「不安」や「不確実性」。三人に一人以上が、AIに対して、わくわくよりも、どこか身構える気持ちを抱いていたのです。
この「不安」の正体を、私は、日本人が持つもうひとつの文化——「恥の文化」の裏面ではないかと見ています。
私たちは、人前で失敗することを、人一倍おそれます。的外れなことを言って笑われたくない。場違いな質問をして、無知を露呈したくない。この感覚は、礼節や謙虚さの源でもあり、日本人の美質と分かちがたく結びついています。けれど、それはときに、新しいことへ踏み出す足を、重くもします。
そして、AIとの対話は、本質的に、試行錯誤のかたまりです。
最初から、うまくは問えません。ぎこちない問いを投げ、ずれた答えを受け取り、「そうじゃなくて」と言い直し、また投げる。この不格好なやりとりを何度も重ねるうちに、ようやく、AIはこちらの意図を掴んでいく。上達への道は、その「下手にやってみる」時間と回数の先にしか、開けていません。
ところが、恥をおそれる心は、この最初の一歩を、そっと押しとどめてしまいます。うまく使えなかったらどうしよう。こんな初歩的な質問をしていいのだろうか——そうやって身構えているうちに、試した四人に一人は、毎日使う二十五人に一人には、なかなか加わらないまま離れていく。
相手は、人間ではありません。AIは、こちらの拙い問いを笑いません。何度言い直しても、呆れた顔ひとつ見せない。本来であれば、これほど気兼ねなく失敗できる練習相手は、いないはずなのです。それでも私たちが身構えてしまうのは、失敗それ自体を恥とみなす感覚が、相手が機械であってさえ、なお働いてしまうからなのでしょう。
言葉にして渡せない。そして、下手に踏み出せない。この二つの「構え」が、準備万端の国の手を、AIから遠ざけている——私は、そう考えています。
第三の逆風──日本語の知の海は、はじめから浅い
ここまで、私たちの「構え」の話をしてきました。けれど、日本人とAIのあいだには、もうひとつ、構えだけでは片づかない逆風が吹いています。それは、日本語という言葉そのものに関わる事情です。
生成AIは、世界中の膨大な文章を読み込むことで、賢くなっていきます。では、その「世界中の文章」は、どんな言葉で書かれているのか。
インターネット上のウェブサイトを言語別に見ると、その約半分——49.7%が、英語で書かれています。圧倒的な多数派です。これに対して、日本語で書かれたものは、わずか5.0%。英語の、およそ十分の一にすぎません。
これが何を意味するか。AIが学びを汲み取る「知の海」は、その大半が英語でできている、ということです。日本語で問いかければ、AIが参照できる知識の母数は、英語で問う場合とは比べものにならないほど、はじめから少ない。私たちは、水位の低い側の岸に立って、AIと向き合っているのです。
そして、この逆風は、個人の心がけでは、どうにもなりません。「言葉にして渡そう」「恥をおそれず踏み出そう」——そうやって構えを正したところで、日本語の知の海そのものが浅いという事実は、一人の努力では変えられない。これは、私たちが受け入れるしかない、構造的な前提です。
——と、ここまでなら、話は暗くなる一方です。けれど、私はそうは思っていません。この「浅い海」には、実は、思いがけない救いが隠れている。それを、最後にお話しさせてください。
視点を反転させる──弱みは、手つかずの鉱脈である
ここまで、ずいぶん日本人の弱さばかりを並べてきました。言葉にして渡すのが苦手で、恥をおそれて踏み出せず、おまけに頼みの日本語の知は、世界の海のなかでは浅い。——三つも逆風が重なれば、もうお手上げではないか。そう感じられたかもしれません。
けれど、ここで視点を反転させてみたいのです。
「暗黙知を言葉にするのが苦手だ」というのは、裏を返せば、どういうことでしょうか。それは——まだ言葉になっていない知恵が、私たちのなかに、手つかずのまま大量に眠っている、ということです。
考えてみてください。欧米の社会は、契約の文化、議論の文化のなかで、ものごとを早くから言葉に変えてきました。マニュアルにし、規定にし、はっきりと口に出す。彼らの暗黙知は、すでに多くが形式知へと姿を変え、汲み尽くされた後なのかもしれません。
ひるがえって、私たちはどうか。「見て覚えろ」「察してくれ」とやってきたぶん、言語化されないまま現場や身体に蓄えられた知恵が、まだ手つかずで残っています。職人の指先に、ベテランの勘どころに、組織の阿吽の呼吸のなかに。それは、これまで「弱み」と呼ばれてきたものですが、見方を変えれば、まだ誰も掘り起こしていない、豊かな鉱脈でもあるのです。
ならば、やるべきことは、はっきりしています。
AIを、この眠った暗黙知を掘り起こすための、言語化のパートナーにすればいい。これまで「察してくれ」と省いてきたことを、面倒がらずにAIへ語ってみる。職人が、生まれて初めて自分の手順を弟子に言葉で説明しようとするときのように、たどたどしくてもいいから、頭のなかにあるものを、AIに向かって開いていく。
すると、不思議なことが起こります。AIに説明しようと言葉を探すうちに、自分でも気づいていなかった判断の基準や、無意識の段取りが、すうっと輪郭を結びはじめる。AIは、こちらの問いに答えてくれる道具であると同時に、こちらに問いを言葉にさせてくれる鏡でもあるのです。
そう考えると、あの「恥をおそれる心」とも、つきあい方が変わってきます。AIへの語りかけは、人前での発表ではありません。誰にも見られず、笑われもしない場所で、自分の暗黙知を、一度、言葉に出して確かめてみる。その下書きの場として使えばいい。うまく言えなくて、当たり前なのです。
弱さを、なかったことにする必要はありません。弱さを正直に認めたうえで、その弱さの裏側に隠れていた資源に、手を伸ばす。日本人とAIの付き合い方は、たぶん、そこから始まります。
浅い海に水を注ぐ──私たちが持つ、世界でも稀な許可証
最後に、先ほど「浅い海にも救いがある」と申し上げた、その種明かしをさせてください。
日本語の知の海は、英語の十分の一しかない。これは動かせない事実です。けれど日本には、その薄さを補ってあまりある、世界でも際立った強みがひとつあります。それは、意外にも——法律です。
日本の著作権法には、第三十条の四という条文があります。少し噛みくだいて言えば、「AIに学ばせる」ことを目的とするのであれば、原則として、世の中のあらゆる著作物を、許諾なく学習に使ってよい——そう認めた規定です。世界を見渡すと、これは驚くほど踏み込んだ内容です。欧州は厳しい規制に舵を切り、米国では「学習にデータを使ってよいか」をめぐって、いまも数多くの訴訟が争われています。多くの国が、AIに何を学ばせてよいのか決めあぐねているなかで、日本は、もっとも広い自由を、すでに法律として手にしているのです。
つまり、こういうことです。日本語という海は、たしかに浅い。けれど私たちには、その海に、自分たちの手で水を注いでよいという、世界でも稀な許可証がある。眠っていた暗黙知を言葉にし、現場の知恵をデータに変え、日本語の知の海そのものを、私たち自身の手で深くしていく——そのための制度の土台は、もう整っているのです。世界最高水準の通信網も、高い教育も、AIを受け入れる準備も、すべては最初から、私たちの足元にありました。
そう考えていくと、最初の謎に、ようやく答えが出ます。
準備万端の国が、なぜAIを使いこなせずにいるのか。足りなかったのは、技術ではありませんでした。法でも、インフラでもなかった。足りなかったのはただ一つ、私たち一人ひとりの「構え」だったのです。胸のうちにある言葉にならないものを、面倒がらず、恥ずかしがらず、AIに向かって開いていく。たったそれだけの構えが、最初の、そして最大の一歩でした。
冒頭で私は、日本人とAIの相性は悪い、と申し上げました。いまも、その見立ては変えていません。私たちの文化は、たしかにAIと噛み合いにくい。けれど——その「噛み合わなさ」の正体を、こうして見定めてみたとき、それはもう、ただの欠点ではなくなっているはずです。言葉にされるのを待っている、豊かな知恵の沃野。AIという新しい道具は、その沃野を耕すために、私たちのもとへやってきたのかもしれません。
察してもらう時代は、終わりました。これからは、語る番です。私たちのなかに眠る、まだ言葉にならない知恵に向かって。
このコラムでは「生成AI×〇〇」をテーマに、セキュリティ・ビジネス・ヘルスケア・暗黙知の四つの切り口から、生成AIとの向き合い方を綴っていきます。